親鸞さんを訪ねて ④六角堂
(前回の続きです)
そこから烏丸通を南へ5分程歩いて、六角通との交差点を東へ曲がると、六角堂に着きました。
六角堂は587年聖徳太子によって建てられたと伝えられ、そのご本尊も聖徳太子が常に携えていたとされる観音菩薩像です。
四天王寺を建てるための木材を求め、京都にやってきた太子。
(この時代の京都平野はまだ手付かずの林が多く残っていました)
ある池で沐浴をして上がったところ、傍らの木の枝に掛けていた観音像が動かなくなります。
その夜、太子の夢に観音菩薩が現れ、
「この地で人々を救いたい。私を祀る御堂を建てなさい」
と告げたため、池の辺に六角形の御堂を建てたのが六角堂の始まりです。
後に平安京が造営されこの地が栄えると、六角堂は庶民が救いを求め、祈りを捧げる霊場として栄えました。
六角堂の住職は代々仏華を生ける技術を磨き、それが華道「池坊」の起源となりました。
現在も六角堂の境内北側には池坊の本部があります。
(上の写真、六角堂の奥右手にある建物)
ちなみに境内西側のビルの一階にはスターバックスがあります。
全面ガラス張りなので、木に囲まれた六角堂を見ながらコーヒーを飲むことが出来ます。
私も入りたかったですが場所はオフィス街のど真ん中、まだお昼休みの時間だったので満席でした( ´ ; ω ;`)
「こんな無力な私が救われる道があるのか、観音様に導いて欲しい」
そう願って六角堂にお参りする様になります。
その95日目、聖人の夢に聖徳太子の姿を借りた観音菩薩が現れ、
「行者、宿報にてたとい女犯すとも、われ玉女の身となりて犯せられん。一生の間よく荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめん」
(修行者が前世の因縁によって女性を犯すならば、私が女性となって犯されましょう。そして修行者の歩む道を荘厳し続け、臨終には極楽に生まれる様に導きましょう)
という文を授けました。
仏教では出家者が結婚すること、性行為をすることは戒律で禁止されてきました。
それは「性欲を抑制するため」ということもあるでしょうが、
結婚し子供が生まれると家族との人間関係、財産、社会的地位…など色々なしがらみが生まれ、「あれが欲しい」「あんな奴が居なければ」という煩悩も増えることから、
それを防ぐために設けられた戒律であると考えられます。
「私(観音菩薩)が修行者の妻となり、その歩みが挫折したり横道に逸れたりしない様に道を用意して、極楽浄土へと導きましょう」
という言葉でした。
それは「妻や子供が居ても、仏道の妨げにならない」というだけでなく、
「妻や家族の存在、更にはそれを守るために必要な様々な苦労を、私の歩む仏道を支える“菩薩”として拝むことが出来る」
という、今までに全く聞いたことの無い教えでした。
夢から覚めた聖人は、
“修行も戒律も求道心も必要ない。どんな悪人でも念仏一つで助かる”
と、おかしな教えを吹聴している。一体どうした事だろう」
という、かつて比叡山で聞いた噂を思い出します。
今まで学んできた仏教の常識に反する、観音菩薩の言葉と法然上人の噂。
そこに相通ずる“なにか”を感じた親鸞聖人は、法然上人の居られる吉水の草庵を訪ねたと伝えられています。
どしゃ降りの雨に打たれながら歩いた5時間。
疲れましたが「歩いて良かったな」と思いました。
親鸞聖人という方は、一生の間にたくさん歩いた方です。
比叡山と京都だけでも何百回と往復したでしょうし、京都から越後、越後から常陸、常陸から京都と、電車も飛行機も無い時代に舗装もされていない道を行かれた方でした。
その歩みの背景には
「こんな私でも救われる教えを求めたい」
「私の出遇った教えを他の人にも伝えたい」
という願いがあったのだと思います。
親鸞聖人の体を突き動かした悩みや聖人が出遇った教えはどんなものだったのか。
これからも学び続けていきたい。
そう思った京都の旅でした。
親鸞さんを訪ねて ③青蓮院
前回の続きです。
知恩院の長い石段を下りて北へ歩くと、青蓮院があります。
ここは元々、比叡山延暦寺の住職「天台座主」(てんだいざす)の住居として建てられました。
天台座主は天皇や貴族から祈祷を請われることがありましたし、その地位には皇族が就くことが多く、当時一流の文化人でもあったので、宮中の様々な行事に招かれることもありました。
その度に比叡山から降りていては大変なので、都と比叡山の中間地点に当たる東山の地に天台座主が滞在する寺院が建てられたのです。
そしてこの青蓮院は、親鸞聖人が得度(剃髪して僧侶になる儀式)を受けたお寺でもあります。
承安3年(1173年)4月1日に日野有範の長男として生まれた松若丸(後の親鸞聖人)。
生家である日野家は藤原摂関家の分家で、本家ほどの高い地位には就かなかったものの、儒学・漢文の専門家として代々重用されていました。
しかし有範は自身の出世を諦め、子供たちを全員出家させるという決断をします。
(記録は残っていないものの、「父(親鸞聖人の祖父)経尹の素行が悪く朝廷から疎んじられていた」「源氏と姻戚関係にあり、源氏と平家の対立に巻き込まれた」など諸説あります)
治承5年(1181年)、9歳の松若丸は叔父の範綱に伴われて青蓮院を訪れます。
その時は既に日没後。
当時青蓮院を預かり、後に天台座主となった慈円和尚は松若丸と対面して、
「もう遅いので、得度は明日にしましょう」
と伝えます。
その言葉に松若丸は、和歌を詠んで答えました。
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
(「あの美しい桜は明日も見られるだろう」と思っていても、夜中に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない。
私達も桜の様に明日をも知れぬ身を生きているではありませんか)
その言葉に心を打たれた慈円和尚は、その夜得度を行ったと伝えられています。
青蓮院の門の左手には「植髪堂」という御堂があります。
松若丸が得度した際に剃り落とした髪を母の吉光女が引き取り、松若丸に似せた像に髪を植え付けて子を思う縁(よすが)としたと伝えられており、その像が安置されています。
像自体はお厨子と手前の阿弥陀如来像に隠れて見えませんが、堂内には親鸞聖人の誕生から入滅、そして大谷廟堂の建立までを描いた絵画が掲げられていて、その生涯に思いを馳せることが出来ます。
植髪堂にお参りした後、奥の庭園を拝観しようかと思いましたが、丁度お昼時でお腹も空いていたので、近くの和食屋さんに向かいました。
とり唐揚げ定食(850円)を注文。
衣がサクサクしていて美味しかったですし、味付けが濃過ぎず自分で塩や山椒をかけて好きな味で食べられたのも良かったです。
(あ~おいしかった(о´∀`о)そういえば御扉閉って何時からだったっけ?)
そう思って本山のホームページを開くと、
【重要なお知らせ】 大谷暢顯門首御退任勤行〔6/30〕及び大谷暢裕門首御代始(御親開)〔7/1〕の中止について | 東本願寺
・・・雨に打たれながら歩いた三時間、その疲れがドッと来ました。
(もうホテルに戻ってふて寝しようかな。ブログも書きたいし…)
そう思いましたが、せっかくの機会なので最後の目的地、六角堂へと向かいました。
(次回に続きます)
親鸞さんを訪ねて ②知恩院
前回の続きです。
大谷祖廟を出て、
円山公園を北へ横切ると、
立派な山門が見えてきました。
浄土宗本山の知恩院(ちおんいん)にやってきました。
知恩院は浄土宗の宗祖である法然上人がお念仏の教えを説いた「吉水の草庵」に程近く、晩年の法然上人が過ごされた場所に建てられています。
若き日の親鸞聖人も吉水の草庵でお念仏の教えを学び、教えを受け継いだ証しとして法然上人の肖像とその主著である『選択本願念仏集』を授けられたと伝えられています。
山門をくぐって長い石段を登ると、法然上人の木像を安置する御影堂がありました。
うわ~!!でけぇ~(ノ゜ο゜)ノ
実は御影堂は2011年から今年の4月まで修復工事を行っていました。
私が京都に住んでいたのは2014年から今年の3月までなので、その間知恩院には何度も来ましたが、工事用の足場に覆われた御影堂しか見たことがありませんでした。
(「日本最大の木造建築」と言われる東本願寺の御影堂と互角なのでは…?)
と、思う程の迫力を感じました。
早速、中に入ってお参りさせて頂きました。
(画像は浄土宗総本山 知恩院公式ホームページより)
建物も大きいですが、内部を飾る仏具も大きいです。
法然上人は生前より「阿弥陀如来の化身」と信じられていました。
そんな上人に対する人々の敬慕の念を感じさせる、荘厳な御堂でした。
御影堂の奥にある石段を登り、勢至堂に向かいました。
法然上人入滅の地と伝えられ、創建当初の知恩院はここが本堂でした。
満開の紫陽花が綺麗でした。
勢至堂の右手にある石段を更に登ると、法然上人の御廟がありました。
仏教と言えば
「修行が出来なければ救われない」「お布施が出来なければ救われない」
それが常識だった時代に、
「善人も悪人も、等しくお念仏一つで救われる」
という教えを説いた法然上人。
様々な非難や弾圧に遭いながらも、老若男女、身分や生業に関係なく、あらゆる人が救われる道を示してくださった法然上人。
そのご苦労とご恩を偲びつつ、お念仏をさせて頂きました。
下りの石段は、上りよりもキツかったです(;´Д`)
(次回に続きます)
親鸞さんを訪ねて ①大谷祖廟
うわ~ん(´;ω;`)
いや、まぁ、京都のど真ん中で200人以上の職員が働いてるのに、
今まで誰も感染しなかったことが奇跡的なんですけどね。
私達も緊急事態宣言が解除されたからと言って、油断してはいけませんね。
しかしこのタイミングかー(´-ω-`)
という訳でテンションだだ下がりですが、気持ちを切り替えていきます。
今日は午前中に親鸞聖人ゆかりの場所を幾つかお参りして来ましたので、その紹介をしたいと思います。
本山の朝の勤行にお参りし、朝ごはんを食べて、まず向かったのは大谷祖廟(おおたにそびょう)。
親鸞聖人の肖像「御真影」が安置されている東本願寺に対して、大谷祖廟は親鸞聖人の遺骨が埋葬されている「聖人のお墓」です。
市バスに乗って祇園で下車。
八坂神社の南を通る、長い参道を歩きます。
着きました。
まずは本堂にお参り。
築300年余りの本堂に入ると、染み込んだお香の香りと古い木材の香りがしました。
本堂の奥にある階段を登ると、御廟があります。
ここに、親鸞聖人、東本願寺の歴代住職(門首)、そして全国の門徒の遺骨が納められています。
拝殿でお焼香してお念仏申しながら、しばらくの間、親鸞聖人の生涯に思いを馳せました。
聖人の九十年の生涯。
両親、師匠、仲間、子供…大切な人との別れを幾度も経験し、
念仏の教えに対する外からの迫害、内からの誤解に悩まされた生涯。
様々な問題が起こる度に、自分の無力さに泣いたこともあったのではないでしょうか。
しかし、そんな聖人の臨終の言葉は「南無阿弥陀仏」だったと伝えられています。
「何でも自分の思い通りになる人生ではなく、思い通りにならない事も“これはこれで良い”と引き受けていける人生が、念仏によって与えられるのです」
という、今朝のご法話の言葉を思い出しました。
多くの苦労と悩みを抱えながら生涯を終えたであろう親鸞聖人と、その生涯を支え続けたお念仏の力。
そんな事を考えていると、職員さんが来て納骨の準備を始められたので、
私は次の目的地、知恩院へと向かうことにしました。
いざ、ご本山へ(2)
前回の続きです。
現在の大谷暢顯(おおたに ちょうけん)門首は1996年からは現在まで約24年間ご門首を務めておられ、今年で90歳になります。
私は2015年に東本願寺の職員になってから、出来るだけ朝七時から始まる勤行にお参りする様に心がけてきました。
お参りすると、いつも本堂の阿弥陀堂・御影堂の内陣(儀式が行われる空間)にはご門首がおられました。
既に80代後半というご高齢で体力の衰えもあったのではないかと思いますが、夏の蒸し暑い朝も冬の刺す様な寒さの朝も欠かさずお勤めをされ、お勤めの後に5合(大きな法要だと一升)もある御飯の盛られた器をお供えされる姿には、本当に頭が下がりました。
僧侶というのはお寺の運営、儀式、法話など様々な仕事がありますが、その基本は「御堂を守ること、毎日勤行をして仏法を聴くこと」に尽きます。
暢顯門首は聴覚障害を抱えていることもあって人前でお話をされる機会はあまりありませんでしたが、私は毎朝お勤めをされるご門首の後ろ姿から、僧侶としての基本姿勢を学びました。
一方、次のご門首となられる大谷暢裕(おおたに ちょうゆう)氏は暢顯門首の従兄弟に当たる方です。
一歳の時に一家で日本からブラジルに渡り、現地でお念仏の教えを伝える父・暢慶(ちょうきょう)氏の姿を見ながら育ちました。
若い頃はサンパウロ大学で物理学を学び、ロケットの開発などに携わっておられましたが、暢慶氏の没後はその後を継いで、南米の御門徒の皆さんと共にお念仏の教えを伝えて来られました。
暢裕氏は門首後継者となるに当たり記者会見やインタビューでコメントをされていますが、その中で
「親鸞聖人の教えは日本を超えて、世界で通用する教え」
「誰もが集える、世界中の人が共にお念仏を申すことが出来る、そんな東本願寺であって欲しい」
と仰っていたのが印象的でした。
暢顯門首の門首として最後のお仕事が、6月30日夕方の「御扉閉」(みとへい)という儀式です。
御真影の前で勤行を行い、御真影を安置した御厨子(おずし)の扉を閉めます。
そして翌7月1日の朝には、暢裕新門首が御厨子の扉を開けて勤行を始める「御親開」(ごしんかい)という儀式が行われます。
私も門徒の一人として、お参りさせて頂こうと思います。
なお、御扉閉と御親開の様子はyoutubeで生中継される予定です。↓
遠方にお住まいの方も、ぜひネットでお参り頂ければと思います。
いざ、ご本山へ(1)
こんにちは。釈真祐です。
私は今、
京都にいます。
お金がないので富山から京都まで鈍行列車5時間の旅です。
夏から秋に向けてお寺の仕事が忙しくなるので、その前に衣やお経本を買いに来ました。
(お寺あるある「買い物のためにわざわざ京都まで行く、ついでに京都観光する」)
しかし今回はもう一つ、買い物以上に大切な用事があります。
その儀式にお参りさせて頂くというのが、今回の一番の目的です。
しかしただ「一つの寺の住職」という立場にとどまることなく、
「真宗大谷派の門徒(信者)を代表して、阿弥陀如来・親鸞聖人のおられる場所を調え、お供えをする」
「毎日勤行を行い仏法を聴くという、真宗門徒の生活の模範を示す」
という大事なお役目を担っておられます。
親鸞聖人の滅後、京都の東山(現在の知恩院と青蓮院の間辺り)に聖人の遺骨と御真影(聖人の木像)を安置する「大谷廟堂」が建てられ、
聖人の弟子達がそこに集い生前の聖人を偲びつつ遺された教えを確かめるということが行われる様になりました。
(↑創立当初の大谷廟堂。六角形の御堂に御真影が安置されています。)
親鸞聖人の弟子達は関東を中心に日本各地に住んでいましたし、新幹線も飛行機も無い時代ですからそう度々京都に行く訳にも行かず、
「誰か京都に住んでいる人にお願いして、廟堂を守って貰おう」
ということになりました。
そこで白羽の矢が立ったのが、親鸞聖人の娘で晩年の聖人のお世話をされていた覚信尼(かくしんに)でした。
かくして、1272年(親鸞聖人の入滅から10年後)に覚信尼が大谷廟堂の護持を行う「留守職」となったのです。
覚信尼の滅後は息子の覚恵上人が留守職を継ぎ、さらにその後を継いだ覚如上人が廟堂に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂を併設したことで、「本願寺」が誕生しました。
その後本願寺は所在地が移転したり、西本願寺と東本願寺に分かれたりしましたが(この辺りの歴史もいつかお話ししたいと思います)、東本願寺の住職(現在の門首)は代々親鸞聖人の子孫が務め、今日に至っています。
時代が進むにつれて東本願寺を中心とする教団が大きくなり、それに伴い門首の役割も大きくなったり逆に分業が進んだりもしましたが、
御真影の安置された御厨子(おずし)の鍵を「鍵役」と呼ばれる僧侶と共に管理し、毎朝勤行の前に御厨子の扉を開け、夕方の閉門時に御厨子の扉を閉めるという仕事は、留守職と呼ばれていた頃から代々の門首が務めています。
(次回に続きます)
法話 2020年6月永代祠堂経(後編)
前回のブログの続きです。
それに対して親鸞聖人は、「念仏申せば救われる」という教えの「宗」、つまり教えを成り立たせる根拠は本願であると説かれました。
本願とは、阿弥陀様が私達との間に結んだ約束です。
「10回程度、それが無理ならもっと少なくても、最悪一回でも、私の名前を呼ぶ人がいれば、必ずお浄土に連れていきます。それが出来なければ私は仏にはなりません」
という阿弥陀様の約束であります。
そして同時に、
「だから恐れず、疑いなく、私の名を呼んでください」
という阿弥陀様の呼び掛けでもあります。
そこには「どんな人が念仏を称えたら救われるのか」とか「どの様に念仏を称えたら救われるのか」といった条件はついていません。
ただ「念仏申せば浄土に生まれる」というのが、阿弥陀様の約束の全てです。
どれだけ真面目な心を持っているかとか、人の役に立つことをしているかという事も、この世間で生活する上では大切なことですが、お浄土に生まれる上では関係がないのです。
「念仏申せば浄土に生まれる」という教えは私の努力や心持ちに根拠があるのではなくて、阿弥陀様の本願を根拠としている訳ですから、
この本願を信じてただ念仏を申せば浄土に生まれるという事を説くのが『大経』の内容であると、親鸞聖人は明らかにされたのであります。
ところで、本願を信じるという事は「他の条件なく、ただ念仏申せば浄土に生まれる」という念仏の力を信じるということですが、
言葉を換えれば「お浄土という念仏以外の条件を必要としない世界がある」ことを信じる、ということになるのではないでしょうか。
私達の生きる世界というのは、学校や職場であれば能力や学力の無い者には居場所が与えられません。
あるいは人付き合いが苦手だったり考え方が違うだけで仲間外れにされることもあります。
そして学校や職場で良い結果を出せない、高く評価してもらえないと、家庭の中でも居場所を失うということも往々にしてあります。
法律を守り税金を守っているにも関わらず、政治に批判的なことを言っただけで「国から出ていけ」と言われる様な国もあります。
ですから私達の生きる世界というのは、様々な条件を満たしていないと居場所を奪われてしまう、限られた人間にしか居場所が与えられない「狭い世界」であることが多いのではないかと思います。
そしてその狭い世界の中で、時に他人を蹴落とし、時に無理をして他人に合わせてでも自分の居場所を守らないといけない、そういうことも多いのではないでしょうか。
それに対してお浄土という世界は、念仏以外の条件を問われない世界です。
正信偈にも出てくる天親菩薩というインドのお坊さんの言葉を借りるなら、お浄土とは「広大無辺際の世界」、つまり世界の内と外とを隔てる壁の無い、限りなく広い世界であります。
私達の生きている世界は、自分にとって都合の良い居場所を守り、居場所を脅かすものを排除するために色々な「条件」という壁を作っていますが、
その壁の外に広がる限りなく広い世界がお浄土であり、そういう世界があることを私達に教えるのが、阿弥陀様の本願であり念仏であると、私は頂いています。
もちろん、本願を信じてもそれによってこの私達が生きている世界、仏教用語で「娑婆」と申しますが、娑婆が浄土になる訳ではありませんし、
娑婆に生きている限り自分の居場所を守るために様々な苦労をしないといけないという事は変わりません。
しかし生きていますとその苦労が出来ないという事もありますし、どれだけ身をすり減らす様な苦労をしても結果にならないという事もあります。
そんな時に、狭い世界しか見えない、狭い世界でしか生きられないと思っていると、ただ息苦しいだけだと思います。
そうではなくて、もしこの狭い世界の中で自分の居場所を見つけられなくても、それでも「生きていていいんだ」と言える様な、
どういう生き方をしていても無くならない、更に言えばこの体が寿命を迎えても無くならない居場所があるのだと信じられるという事、
その事がお念仏を通して私が頂いた救いでありますし、今日までお念仏の教えを伝えてくださった、数えきれないご先祖様の人生を支えてきた念仏の力では無いかと、思うことであります。
今日の永代経祠堂経というご縁に向けて、この数か月徹夜で法話の内容を考えたりお経の練習をしたりしましたが、その中で
「お経を読む、お経に説かれた教えを学ぶというのは、こういう行事のある時だけではなくて、少しづつでも毎日心掛けることが大事だなぁ」
と感じました。
どうか皆様にも毎日の生活の中でお勤めと聞法を大切にして頂きたいと願っておりますし、私自身大切にしたいと思います。