親鸞さんを訪ねて ③青蓮院
前回の続きです。
知恩院の長い石段を下りて北へ歩くと、青蓮院があります。
ここは元々、比叡山延暦寺の住職「天台座主」(てんだいざす)の住居として建てられました。
天台座主は天皇や貴族から祈祷を請われることがありましたし、その地位には皇族が就くことが多く、当時一流の文化人でもあったので、宮中の様々な行事に招かれることもありました。
その度に比叡山から降りていては大変なので、都と比叡山の中間地点に当たる東山の地に天台座主が滞在する寺院が建てられたのです。
そしてこの青蓮院は、親鸞聖人が得度(剃髪して僧侶になる儀式)を受けたお寺でもあります。
承安3年(1173年)4月1日に日野有範の長男として生まれた松若丸(後の親鸞聖人)。
生家である日野家は藤原摂関家の分家で、本家ほどの高い地位には就かなかったものの、儒学・漢文の専門家として代々重用されていました。
しかし有範は自身の出世を諦め、子供たちを全員出家させるという決断をします。
(記録は残っていないものの、「父(親鸞聖人の祖父)経尹の素行が悪く朝廷から疎んじられていた」「源氏と姻戚関係にあり、源氏と平家の対立に巻き込まれた」など諸説あります)
治承5年(1181年)、9歳の松若丸は叔父の範綱に伴われて青蓮院を訪れます。
その時は既に日没後。
当時青蓮院を預かり、後に天台座主となった慈円和尚は松若丸と対面して、
「もう遅いので、得度は明日にしましょう」
と伝えます。
その言葉に松若丸は、和歌を詠んで答えました。
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
(「あの美しい桜は明日も見られるだろう」と思っていても、夜中に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない。
私達も桜の様に明日をも知れぬ身を生きているではありませんか)
その言葉に心を打たれた慈円和尚は、その夜得度を行ったと伝えられています。
青蓮院の門の左手には「植髪堂」という御堂があります。
松若丸が得度した際に剃り落とした髪を母の吉光女が引き取り、松若丸に似せた像に髪を植え付けて子を思う縁(よすが)としたと伝えられており、その像が安置されています。
像自体はお厨子と手前の阿弥陀如来像に隠れて見えませんが、堂内には親鸞聖人の誕生から入滅、そして大谷廟堂の建立までを描いた絵画が掲げられていて、その生涯に思いを馳せることが出来ます。
植髪堂にお参りした後、奥の庭園を拝観しようかと思いましたが、丁度お昼時でお腹も空いていたので、近くの和食屋さんに向かいました。
とり唐揚げ定食(850円)を注文。
衣がサクサクしていて美味しかったですし、味付けが濃過ぎず自分で塩や山椒をかけて好きな味で食べられたのも良かったです。
(あ~おいしかった(о´∀`о)そういえば御扉閉って何時からだったっけ?)
そう思って本山のホームページを開くと、
【重要なお知らせ】 大谷暢顯門首御退任勤行〔6/30〕及び大谷暢裕門首御代始(御親開)〔7/1〕の中止について | 東本願寺
・・・雨に打たれながら歩いた三時間、その疲れがドッと来ました。
(もうホテルに戻ってふて寝しようかな。ブログも書きたいし…)
そう思いましたが、せっかくの機会なので最後の目的地、六角堂へと向かいました。
(次回に続きます)