釈真祐の今日この頃

富山在住の浄土真宗(真宗大谷派)僧侶・釈真祐が、親鸞聖人の教えを学びながら感じたことを書いていくブログです。

法話 2020年6月永代祠堂経(前編)

こんにちは。釈真祐です。

 

去る6月13日に、所属するお寺で「永代祠堂経(えいたいしどうきょう)」という行事がありました。

例年であればご門徒の皆さんにお参り頂いておりますが、今年は新型コロナウイルスの感染を防ぐために、私と坊守さん(住職の奥さん)の二人で勤行と法話をさせて頂きました。

今回は、その際に私がお話させて頂いた法話を掲載いたします。

(長いので前後編に分けます。)

 

 

 

 

 

 

このたびは当寺の永代祠堂経ということで、しばらくの間お話をさせて頂きます。

 

私は家がお寺ではありませんでしたし宗派も違いましたから、二十歳を過ぎて僧侶になるまで「永代祠堂経」という行事があることすら知りませんでした。

 

今回この法要を勤めるにあたり、永代祠堂経とはどの様な行事なのかを調べてみますと、永代祠堂経という言葉は、元々「永代経」と「祠堂経」という別の言葉を一つにしたものだそうです。

 

「祠堂経」というのは「祠堂」、つまり先祖の遺骨や位牌を祀る場所でお経を読むことを言います。

 

それに対して「永代経」というのは「永代」、つまり遠い過去から遠い未来まで途切れることなく、お経を伝えていくことを表す言葉です。

 

過去から未来という時間の流れを直線で表すとすると、その線の上に「現在」という点があります。

 

その「現在」という点から、「永代経」という名前で勤められる法要の意味を考えてみますと、一つには何世代、何十世代と遠い過去から現在までお経を伝えて下さったご先祖様に感謝すること、そしてもう一つは現在を生きる私達が子や孫やその先の世代にお経を託すために、お経を読み、お経を聞き、お経に説かれた教えを学ぶこと、この2つが永代経の意味と、言えるのではないかと思います。

 

「祠堂経」というのは浄土真宗以外の色々な宗派でも一般的に行う行事の様ですが、浄土真宗では、地域による違いはあると思いますが、単に「祠堂経」とは余り言いません。

 

「永代経」もしくは「永代祠堂経」と言う事が多いです。

 

それは単に宗派によって呼び方が違うというだけでなく、他宗派で行う祠堂経は、私達がお経を先祖に聞かせて、先祖が成仏する様に祈るという「追善供養」としての意味合いが強いのに対して、浄土真宗ではお経は御先祖様から私達が頂いたものだから、お経を伝えて下さった先祖に感謝をする、そして次の世代にお経を託すことで先祖の願いに応えていく、という事を大事にしているので、「永代経」として法要を勤めるのであります。

 

 

 

それではそのお経にはどういう事が説かれているのか。

 

仏教には「般若心経」、「法華経」、「華厳経」等色々なお経がありますが、浄土真宗において「経」と言えば三部経、すなわち『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三つであります。

 

そしてその中でも浄土真宗という宗派で一番大切にされているのが『大無量寿経』、いわゆる『大経』であります。

 

ではその『大経』には何が説かれているのかということを、親鸞聖人は『教行信証』という書物の最初の所で、阿弥陀如来の本願がこの経の「宗」であり、阿弥陀如来の名号がこの経の「体」であると、書かれています。

 

「宗」と「体」というのは聞き慣れない言葉ですが、「体」はお経の内容そのもの、「宗」はその内容を成り立たせる根拠、核心部分、そういう意味です。

 

色々な法話を聞きますと、この「体」と「宗」の関係は家で例えられることが多いようです。

 

「体」が家そのものだとすれば、「宗」は家の一番上で屋根と屋根を結ぶ「棟木」です。

 

この棟木が無ければ屋根が作れないし、屋根が無ければどれだけ壁や部屋を作っても家が家として機能しない訳ですから、一本の棟木が家を家として成り立たせていると言える訳です。

 

また扇子で例えられることもあります。

 

扇子の要というのは小さな留め具でしかありませんが、この要が無ければ骨がバラバラになって使い物にならないですよね。

 

なので要という「宗」が扇子という「体」を成り立たせていると、こういう例え方もされます。

 

親鸞聖人の言葉に戻りますと、『大経』の「体」、このお経が伝えようとする内容は名号、つまり阿弥陀様のお名前、「南無阿弥陀仏」であります。

 

それは「南無阿弥陀仏」がただの名前ではなくて、私達が一言でも「南無阿弥陀仏」と称えるなら、浄土に生まれて仏に成ることが出来る、そういう私達を救う大きな力を持った言葉が「南無阿弥陀仏」なのだということ、これが『大経』の内容であります。

 

しかしこれだけだと、私達には色々と疑問が残るのではないでしょうか。

 

念仏は沢山唱えた方が良いのか。

 

むしろ回数じゃなくて、一回の念仏に心を込めることが大事なのか。

 

雑念の混じった念仏はダメなのか。

 

心に仏様の姿を思い浮かべながら称えた方が良いのか。

 

念仏する前に身を清めるとか肉を食べないとか、そういう準備が必要ではないのか…など。

 

ただ「念仏を称えたら救われる」と言われても、どの様に称えたら良いのか、称える他にも準備や条件が必要ではないのか、そういう疑問が起こってくるのではないでしょうか。

 

 

 

(後編に続きます)

ご挨拶

みなさんこんにちは。釈真祐と申します。

私は鎌倉時代親鸞聖人が始めた「浄土真宗」という宗派の僧侶です。

この宗派の中には幾つかの教団があり、私はその中で京都の東本願寺を本山とする「真宗大谷派」に所属しています。

 

元々お寺と縁の無い家庭に生まれましたが、20歳の頃に浄土真宗に出あい、地元のお寺に法話を聞きに通う様になり、やがて「もっと仏教を学べる環境に身を置きたい、自分の出あった教えを他の人とも共有したい」と思ったことや周囲の皆さんの後押しもあって、2014年に僧侶になりました。

 

その後は東本願寺の職員として5年間勤め、現在は瀬戸内海に面した故郷から遠く離れた富山県に引っ越し、お寺の仕事をさせて頂いております。

 

・・・「お寺のお仕事」と言いましたが、実は今あまり仕事がありません。

皆さんもご存知の通り、新型コロナウイルスの流行で、3月から現在まで外出も人と会う機会も大幅に制限されています。

その影響で法事やお寺の行事も中止や延期にせざるを得ない状況が続いています。

 

そんな中で、

「自分達の出来る方法で何とかして教えを伝えよう!」

と、Youtube法話を配信したり、zoomで仏教の勉強会をするお寺が増えてきました。

 

私も「コロナだからって引きこもるのはもったいない、自分も何かしよう」と思いましたが、

動画を配信するにもカメラやマイクが無いし、買うと高い。

あがり症だから長時間カメラに向かって話せる自信が無い。

(「お坊さんがそれってどうなん!?」と突っ込まれそうですが・・・汗)

 

そこで、ブログという方法を選ぶことにしました。

 

現在所属するお寺の掲示板に貼る言葉を書いており、月一回ぐらいのペースで更新する予定ですので、その紹介をしたいと思います。

他にも法要や法話にお参りした時に感じたことを書いたり、更に時間があれば聖典の現代語訳も試みてみたいと思っています。

 

最後に・・・私は「仏教の力で世の苦しみ悩む人を救うぞ!」という大それたことは出来ません(それは仏様の仕事ですし)。

「仏教ってどんな教えなのか、分かりやすく解説します!」ということも、難しいかもしれません。

ただ、このブログを通して、自分が感動した言葉、疑問に思った言葉を「こんなんありましたよ」と、皆さんとシェア出来たら良いな、と思っています。

 

よろしくお願いいたします。