いざ、ご本山へ(1)
こんにちは。釈真祐です。
私は今、
京都にいます。
お金がないので富山から京都まで鈍行列車5時間の旅です。
夏から秋に向けてお寺の仕事が忙しくなるので、その前に衣やお経本を買いに来ました。
(お寺あるある「買い物のためにわざわざ京都まで行く、ついでに京都観光する」)
しかし今回はもう一つ、買い物以上に大切な用事があります。
その儀式にお参りさせて頂くというのが、今回の一番の目的です。
しかしただ「一つの寺の住職」という立場にとどまることなく、
「真宗大谷派の門徒(信者)を代表して、阿弥陀如来・親鸞聖人のおられる場所を調え、お供えをする」
「毎日勤行を行い仏法を聴くという、真宗門徒の生活の模範を示す」
という大事なお役目を担っておられます。
親鸞聖人の滅後、京都の東山(現在の知恩院と青蓮院の間辺り)に聖人の遺骨と御真影(聖人の木像)を安置する「大谷廟堂」が建てられ、
聖人の弟子達がそこに集い生前の聖人を偲びつつ遺された教えを確かめるということが行われる様になりました。
(↑創立当初の大谷廟堂。六角形の御堂に御真影が安置されています。)
親鸞聖人の弟子達は関東を中心に日本各地に住んでいましたし、新幹線も飛行機も無い時代ですからそう度々京都に行く訳にも行かず、
「誰か京都に住んでいる人にお願いして、廟堂を守って貰おう」
ということになりました。
そこで白羽の矢が立ったのが、親鸞聖人の娘で晩年の聖人のお世話をされていた覚信尼(かくしんに)でした。
かくして、1272年(親鸞聖人の入滅から10年後)に覚信尼が大谷廟堂の護持を行う「留守職」となったのです。
覚信尼の滅後は息子の覚恵上人が留守職を継ぎ、さらにその後を継いだ覚如上人が廟堂に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂を併設したことで、「本願寺」が誕生しました。
その後本願寺は所在地が移転したり、西本願寺と東本願寺に分かれたりしましたが(この辺りの歴史もいつかお話ししたいと思います)、東本願寺の住職(現在の門首)は代々親鸞聖人の子孫が務め、今日に至っています。
時代が進むにつれて東本願寺を中心とする教団が大きくなり、それに伴い門首の役割も大きくなったり逆に分業が進んだりもしましたが、
御真影の安置された御厨子(おずし)の鍵を「鍵役」と呼ばれる僧侶と共に管理し、毎朝勤行の前に御厨子の扉を開け、夕方の閉門時に御厨子の扉を閉めるという仕事は、留守職と呼ばれていた頃から代々の門首が務めています。
(次回に続きます)